らくらくらいふ

おだやかでおちついたきもち、それだけ

だってモリゾーって森じゃん

頭の体操じゃねえんだよ。頭がいい人たちの高尚な遊びじゃねえ、人生がかかってるんだ。楽に生きるための人生が。これは頭の体操じゃない。本を読むのは暇つぶしじゃない。コーヒーのみながら読書は人を豊かにするねいなんて悦に浸ってる高学歴どもと一緒にすんなよ、人生かかってんだ。布団の中で明日の不安に頭とみぞおちを踏みつぶされながら、目頭あつくして枕に涙の染みがひとつぶふたつぶみつぶよつぶ布団の奥の奥の奥の深いところまでもぐってもう何も見えないようにしながらぎゅっと目をつぶった、暗くて暗くて暗いのに明日経験するであろう失敗のイメージだけは色鮮やかで鮮明な暗闇の中で必死にすがるもの、それが東洋哲学なんだよバーカ、人生がかかってるんだ、みぞおちをかかとで踏みつぶされてる感覚、そいつのかかとをつかんで、噛みついて、かみ砕いて、かみ殺してやるんだ、東洋哲学、だから助けてくださいね

 

 

 

モリゾーとキッコロだったらキッコロ派だったんですが、それってロリコンってことで間違いないですか?っていう思考が今浮かんだんだけど、なんで?意味が分かんないし。この世に無数に考えることあるのに、明日もすごく最低で嫌なのになんでモリゾーとキッコロ?よくわからないけどキッコロが好きってことに負い目を感じているのかな?かわいい声が好きって不純な動機な気がします。後ろめたさ?知らないけど。自然にやさしく?森を切り開いて万博?ミルクティーから最近レモンティーに変えてレモンティーめっちゃ飲んでるんですけど、だからなんで?こういう思考?LSD?カラフル?度を越えたカラフルは暴力的で気持ち悪いらしい。幻覚のぐにゃりぐにゃりなカラフルはかわいくないですよ!

 

 

 

それはそうと、もうすぐ15時になります。休日ってこうやって終わるんだぁって休日のたびに思うんですけど、こうやって生きていくのは嫌です。涙が自然にでてきちゃう体質になった。休日の夕方は。悔しくて。休日が終わることが。休日に涙を流すんじゃ、休日じゃないですね。休んでないじゃないですか?うっせーな、ボコボコにします。ってことでどこで僕は休んだらいいかな?どこに行けば休めるのかな?って考えたらやっぱ働いているときが一番休めている気がします。認めたくないけど。働いている限り、働くのが嫌だっていう思考にはなりにくいから。

 

 

 

今日はもうひとりの社員が教室を運営していますが、めちゃくちゃ心配性なので、昨日の夜、退勤後変なメモとか教室に置いていないか心配で教室中をみてまわりました。もうひとりの社員に迷惑をかけるのは嫌だし、あいつは迷惑をかける人間で仕事ができない人間で無頓着で気持ち悪いと思われたくないから、完璧な状態で教室をでたいとおもって。職場のカギをしめてから自転車に乗って、エアコンきり忘れてないか心配でたまらず、また職場に戻ってきて鍵をあけて、指差し確認して鍵を閉めました。指差し確認して鍵を閉めている間にまたエアコンのスイッチが入ったんじゃないか気になってまた職場の扉を鍵であけました。空気清浄機のスイッチが入ってないことも確認して、コンセントをぬいたことも確認して、全部指差し確認して、教室のカギをしめて、自転車乗ってから、終わらせていない仕事があることに気づいて、また職場に戻りました。その結果朝まで働きました。死ね

 

 

朝に帰ってきて、寝て、起きたら昼でほんとに悲しくて。悲しくて悲しくて。部屋中のものをすべて破壊したくなった。休日の1/3をつぶしてしまった。死んでくれ。お願いだから。誰に死んでほしいかというと、誰も死んでほしくないんです。だから幸せにしてください。キッコロよりモリゾーのほうが好きって打ったけど違和感ありすぎて自分にうそをついている気がしてやめた。キッコロ、お前の声ももう思い出せねえよ、どうでもいいもん。自分が幸せになることだけを考えて生きているから、それ以外のことはどうでもいいんだけど、人に嫌われることが自分にとって一番の脅威だから、人にやさしくしないと生きていけないんだ。やさしくないけど、やさしい人のふりをして、やさしい人って思われないと。愛されたいし、もう少し足をあしをのばしてワンランク上の願望を言わせてもらうと、ほんとにやわらかい人に抱きしめられたいです。

 

 

 

きも。きもっていうのは肝ではなくて、気持ち悪いのきもなんです。明日がきもい。まず。まず、まっさきに、明日がきもい。

 

 

 

自分の心は公共の場所なんだ。自分の心は自分だけの空間。自分だけがカードキーもってて、自分だけが入れる場所だって勘違いしている馬鹿な人間だから、変なきしょくてうるさい不安や心配のBGM流れてるその空間でひとりぎゃーぎゃーゆうてますね。

 

 

 

心は公共の場所。私の心は公共の場所。公共の場所っていうのはつまり、自分の心とこの世界の境界線がなくなったってこと。今この部屋は外側。団地の外の世界も外側。あの保育園も外側。世界は外側。じゃあその外側に、自分の心も押し出してしまう。自分の心が外側でない理由は?認識できるから、それは外側なんだ。公共の場所だ。外の世界。つまり心とは風景。風景に責任を感じるか?風が吹いたのは自分の責任か?自然現象。ただ起こったこと。ただ起こったことっていうんなら、こんなしょうもない文字を生産したのは誰なんだ?自分が考えたことではなくもはや指が勝手に動いているんだ。考えたのではなく考えがおこったのだ。おこった考え。つまり風がふいたのと一緒。かぜふこうかな、ぴゅーじゃないのよ、風は吹いたんだ。雨降らそうかなパラパラパラってできたらすげーよ、雨は降ったんだ。意思とは関係なく。誰が明日の心配なんてしたいと思うんだよ。明日の心配が勝手に起こったんだ。それに何の責任もないだろ。風景とおなじだろそんなの。過ぎ去るのを待ってろよ。過ぎ去るのを待つ?別に待たなくてもいいよ。「土砂降りの雨の中ずぶ濡れで走っていけるか」風景風景風景。心は公共の場所だし、外側だし、公園の広場といっしょ。だから悩まなくていいよ。風景だから。外側だから。責任がないから。自分のものではないから。treatしなくていいよ。

 

 

 

 treatって扱うって意味であってたっけ?バカな人間だって思われて嫌われたくないから、調べてきていいですか?