らくらくらいふ

おだやかでおちついたきもち、それだけ

わらわはスクリーン

さっき書いた記事の意味が分からないから整理させてちょうだいね

 

音が聞こえる。どこできこえている?

パソコンや白い壁、キーボードがみえている。どこでみえている?

もやもやしてる。平日の心配をしている。どこに感情が表れている?

キーボードが指に当たる感触。どこで感じる?

 

どこに、どこで、の答えはひとつ。「意識」または「スクリーン」

ここで展開されている。やっぱり「意識」にしよう。

だから、私とは意識なのだ。

 

 

意識とは空間のこと。

(意識、空間、スクリーン)=受容能力がある

だからハーディングの本で「私とは受容能力だ」と言っていた。

 

 

エックハルトトールもすべてにYes!と言おうといっていた。

ナチュラルスピリットから出てる本のほとんどに同じようなこと書いてあった気がする。

すべてにYesというのはつまり受容能力のこと。

オノヨーコの作品で天井に小さくYesって書いてあってジョンレノンがすきー!ってなって結婚したやつ思い出した。

 

 

受容しましょう、受け入れよう、じゃないのよ

あーーーミスタイプばっかでいらいらするなあ!!!!

イライラするということは、イライラするという感情を自分が受容したのだ。

受容したからスクリーンにイライラが照射されたのだ。

つまりだ。受け入れましょうじゃないのよ。

受け入れているんだ。

受け入れることがその性質だから。

性質ということは、どれだけいやがったって有無を言わさず、そうなる。

水は上から下に流れるものなんですが、どれだけいや!いやいや!といったって

水は必ず下に流れていくし。つまり、どれだけいやがったって、そうなる。性質。

空間はどんな存在をも許容する。どんな存在をも許容するから空間なのだ。

ってやつ、ルパートスパイラのプレゼンスの中に書いてあった気がする。こんなこといってた文章だけメモして本買わずにブックオフから帰ったのが2年前だけどまだ覚えてる。ってことはきっと真実なんだろう!そうきめたよ!ちゃんと本買わなきゃ

 

 

私の性質は受容能力。ということは、私はすべてのすべてを受け入れてしまう。

だからいらいらもすべて、すべてのすべてが照射される。

問題となるのは、それを拒否するか、しないか。

拒否したところでもうスクリーンに写されているんだから、どうしようもないじゃないか。なのに毎日毎日拒否しています。自分は。

拒否するということもスクリーンに照射されてしまった。

拒否する嫌な感情も空間の中に現れた。それに気づいて。

 

 

やっぱり鍵は結局気づきなんだよな。

自分はいろんな訪問者でごったがえすターミナル駅みたいなもの。

新宿駅新宿駅?わたしは新宿駅。みんな、駅にとまらず帰ってくよ、みんなすぐに消えていくよ。勝手に現れて勝手に消えていく。新宿駅は解脱者だ、たくさんの感情を受容しているのだから

 

 

 

来るもの拒まず去る者追わず。

これが私の標語になればいい。これが空間としての姿。

私とはそういうもの?

 

 

 

 

別に、頭の体操とか知的好奇心みたしたいとかじゃないんだよ

頭はつかいたくないし、頭わるいから、もう全部どうでもいい。

ただ、楽に生きたいだけ。

楽になりたい。重荷をおろしたい。

ふわ~とふかふかした気持ちであたたかく生きていきたい。

楽になりたいし楽でいたい。解放されたい。開放的に生きたい。

ハーディングが本の中で「奇跡的開放」といっていた

それに期待したい。

セドナメソッドにも解放することで開放されるだとか書いてあって

なんでもいいから解放してくれ。いますぐ解放してくれ

 

 

受容能力、空間

拒否できない。決して拒否できない。性質だから。

受容能力、能力というより受容。受容の一択のみ。

受容し続けている。

視覚での受容

聴覚での受容

嗅覚での受容

触覚での受容

味覚での受容

あらゆる受容の瞬間を見逃さないこと。

拒否権が一切認められないことに気づくこと。

これがサレンダー。精神的な降伏によって幸福に。

サレンダー、捨てちゃったんだっけ?いい本だったのに

 

 

私とは受け身だ。完全に受け身だ。

受け身が私の性質か?

 

 

思考が湧きあがったその瞬間、どこに湧きあがったのか知ること。

思考が下りるヘリポートを見つめる。

思考がわきあがったのは、私とは受容であり、なんでも受け入れるから。

でも、みつめたら消えたよ。

 

 

 

私は人間ではない。

私とは場所だ。