らくらくらいふ

おだやかでおちついたきもち、それだけ

フェニックスのくせにPから始まるんだ

明日が普通に怖くて、明日を乗りきるために秋田先生に勇気をもらおうと、新言語秩序のBDを再生し始めたら誤って全部観ちゃってこの時間になりました。深夜3時。こわい。明日が怖いのに、明日を乗りきるために力が必要なのに、3時になっちゃった。もうダメだ。睡眠不足のまま明日を迎えちゃう。こわい。

 

 

嫌なことを先延ばしにする性格になってしまったから、明日のために準備が必要なのに、何もせずに逃げちゃいました。絶望しています。絶望するだけして、結局何もしません。準備しません。準備しないと決めてからさらに明日が怖くて、なかなか暖かくならない布団の中で震えながら奥歯を噛み締めています。ゴミ

 

 

 

明日を変えるのは面倒だ、駄目な自分を帰るのは面倒だ、生きてることが恥ずかしい。今日も恥ずかしいことした。よく生きていられるな、逆に頭良くなっていろんなことに気づいちゃうと、今日のことも、昨日のことも、全部恥ずかしくなって生きるのがいよいよ嫌になるかも、だから馬鹿のままでいいんだよ

 

 

 

明日が怖くて逃げ回ってる。文章書くことに逃げてる間にどんどん明日が深まってく。3:15はもう朝だよ、おわりだ。

 

 

 

 

 

 

 

明日

あと8分で今日が終わる。それが悲しいから、せめてなにか、なにかなしとげたなってやつがほしくて、文章をかきます。ゴミみたいな文章しか書けないけど、なにもせずに、明日に絶望しながら、明日を迎えるのはいやだから。

 

 

結局外の空気を吸いませんでした。外の空気は平日のにおいがするから。「すみません」のにおいがするから。遠慮のにおいがするから。電話口の上司の声がききとれなくて、でもきこえませんでしたもう一度お願いしますっていえなくて、わからないまま話進めてって、結局怒られて終わる、そういう日のにおいがするから

 

 

チョコをぼりぼり食べて、寝て、起きて、チョコ食べて、寝て、起きて、YouTubeみながら軽く笑ったりしてたら日付がかわりそうだ。なんかもういやだ。もういやだってそりゃ8年前から嫌気は差しているが。ほんとにほんとのいやになった。YouTubeでずっとソニーミュージック新卒採用の動画をみていたんだけど(何度もリピートしたっていう意味)やっぱり行きたかったなあっておもう。後輩が音楽業界かアニメ業界の最大手に就職してるっぽくてそれがやっぱり悔しくて、なりたかったものに全然なれないし、あこがれていた人生とは程遠いし、本当に嫌になってしまう。悲しくていやだ。

 

 

なんで夢がかなわなかったのかってそりゃ、何もしなかったからだよ。努力が足りないとかはやくそういう次元に行きたいです。夢をかなえるのも面倒だし、夢をかなえず惰性の毎日を送るのも面倒だし、結局何をするのも面倒で、本当はなにがしたいんだ?ってずっと汚い布団の中でごろごろしながら人生について考えるだけ考えて、そのまま死にたいんだ、結局。

 

 

 

本当になりたかったものと、今の人生のギャップを確認してまた布団にもぐった

なるはずだった自分と、冷蔵庫の前でうずくまってチョコを貪り食ってる自分の落差をはっきりとみて可哀そうになった

本当は毎日満足して、毎日生きてるって実感があって、人に認められて、人に尊敬されて、自分自身に満足して、自分が大好き、ってほどじゃないけどそれなりに好きで、彼女のひとりくらいいるはずだった、北海道のまっすぐな道路をバイクで走りたいって浪人時代のノートに書いて、それももう見たくないから、でも捨てられなくて、ずっと本棚においてある。夢をかなえて満足してる自分の妄想がほんとにできなくなってしまった。前はずっとあこがれててニヤニヤしながら想像できたのに。怒られる妄想、ばかにされる妄想、嫌われたくないですって顔で教室にいる自分の姿しか思い描けない

 

 

 

負け組の人生っていえばそれでいいのか?負け組の人生で片付けられるほどのものじゃないんだ、夢をかなえる責任があるんだ。自分の人生に満足して終わる責任があるんだ。責任があるんだ。この軌道は間違いなく、どうしようもない大人になる。すでにどうしようもない大人になってるから。このままずっと続けるのか?どうしようもない大人の軌道上をぐるぐるぐるぐる回って死ぬだけか?

 

 

 

このまま死にたくないって、もう死んでるようなもんだろ。このまま死んだんだ。とうとう自分は死んだんだ。だから冷凍庫の前でチョコをぼりぼり食べて、おなかいっぱいなのにカップ麺たべて、逃げて逃げて逃げ続ける毎日がなんにも悔しくないんだ。悔しくないんだ!悔しさを完全に忘れてしまってるんだ。悔しさを完全に忘れてしまっている、完全にくやしさを忘れてしまっているじゃん、いま気づいたよ。おい、おいおい。この生活が悔しくないんならお前は終わりだ。つまり終わったってことだ。終わってたんだ、でも今気づいたから、今気づいたからまだやり直せるんじゃないですか?やり直すとか、そういう言葉すきじゃないから、なんとなく言っただけですが

 

 

 

夢を描かなくなった。夢っていったらおおげさだけど、要はどこに行きたいかってことだろ、どんな自分で生きたいかってことだろ、選択することすら放棄したのか?

 

 

 

なりそこねた自分を想像して。どんなに思い出すのが難しくても、脳を潰してもいいから思い出せ。なり損ねた自分を想像して、本当は何になりたかったのか思い出して。本当は何になりたかったのか思い出して。たくさんたくさん描いた夢があって、自分が怠け者なせいでひとつひとつつぶれていって、このままじゃだめだと思ってがんばってかなえようとしたこと、ひとつひとつ離れていった。できない人のふりをしてたら、ほんとうにできない人になってしまった。どうしようもない人間かもしれないって、どうしようもない人間のにおいがしてきたとおもったら、本当にどうしようもない人間になってしまっていた。

 

 

なりたかった自分を想像して、なりたかった自分に顔面を踏みつぶされながら寝ればいいよ、痛いです、苦しいです、やめてくださいってヘラヘラしながら、嫌われたくないからって、ヘラヘラしながら、いたいですいたいです、やめてくださいってヘラヘラしながら、なりたかった自分に顔面を踏みつぶされながら寝ろ。いま、ここで天井を見上げて明日を悲観しているお前みたいな人間が大嫌いだから、こんな自分を早く捨てたくて、理想の自分を思い描いて駄目な自分を脳内から消そうとしていた10代の自分に、がっかりさせてごめんって、やっぱりこうなっちゃったって、本当にごめんなさいって土下座しろ。土下座したって誰が許すかお前みたいなやつ。この8年、もし、人並みにがんばって、がんばって、がんばったら、どんな素晴らしい人間になれたんだろう。期待してたのに。期待してたのに!!死ね、死んでくれ、おねがいだから、二度と顔を見せないで。未来の自分に期待を抱いていた10代の自分にとても顔向けできないから、せめて顔面を踏みつぶされながら、顔面を踏みつぶされながら謝ればいいよ。許されないことをしたって、夢がかなわなくて、駄目な自分になってしまったって。でも駄目な人間になってしまったつらさよりも、明日怒られることのほうがつらいと思ってしまうんだ、こんな小さな、どうしようもない、だめな自分になってごめんって、もはや誰かわからないくらい顔面を踏みつぶしてくれ。もう誰にも会えない。

 

 

 

 

叶えたかった夢のために犠牲にしてきたもの、無駄な犠牲、傷つけた人たちを思い描いて、その人たちにみぞおちを踏みつぶされながら寝よう。くるしい、胸が痛いって泣きながら寝よう。明日のつらさより、犠牲にした数々の罪の重さで、胸が張り裂けますように。許される罪ではないんだよ。死にたいなら死ねばいいよ、もう終わりだと思うんなら二度と夢を描くな、どうせ死んでるようなもんだって自虐するんなら二度と才能のある人間に嫉妬するな、夢をかなえた友達に嫉妬するな、今からいくらでも将来をつくっていける高校生に嫉妬するな、幸せそうに生きている人間に嫉妬するな、そんなのは自分に期待してる人間だけがやることだ。本当に終わった人間なら、自分が負け犬だと思うなら、二度と自分に期待するな

 

 

 

 

大好きな音楽をかけて、チョコをたべて、レモンティーのみながら、「終わった人間だ」なんて、情けなくて、情けなくて、涙がでてくるよ

ティファールで沸かしたお湯で暖をとる人間、あたたかいねえ、あたたかいねえ、といいながら涙を流しやがった!!

馬鹿な人間だから、明日がこわくてこわくてずっと椅子に座っていられず、布団の上でごろごろするのも時間を無駄にしている感でぜんぶそぎおとされて、どうしよう、どうしようってなってずっと悲しくて、ずっとこわくて、どこに行けばいいかわからなくて、食べることに逃げてしまいます。カップ麺おなかいっぱいなのにお湯いれて、ずるずるやって、おなかがいっぱいで苦しくて、チョコあけて、チョコぼりぼりたべて、悲しくて、どこに行けばいいかわからなくて、部屋の中のどこに自分の居場所があるのかずっとさがして、結局冷蔵庫の前でうずくまりながらチョコをぼりぼりたべて、薄暗くて冷たい床眺めてたら、明日の失敗のイメージ、社長に電話で怒られて、塾生の前で大変申し訳ございませんでしたって言って泣きそうになるイメージがすっごく鮮明に浮かんできて、気づいたら210gのピーナッツチョコ1袋全部食べちゃって、もう15時まわったし、つらい、かなしい、こわい、ほんとにこわい、明日が。きもい。きもいっていうのは強がりでほんとはこわいんだ。明日がこわい。抱きしめられたい。ほんとに抱きしめられたい。やわらかくてあたたかいひとに。神、神にすがりたくなるのはこういうとき。信仰心が篤い。信仰心が篤いの篤い、昔は書けなかったし信仰心は篤いの意味も分からない人間だったから篤さがわかんなかったわ、今もう信仰心が篤くて篤くて頭がおかしくなりそうだ。アツアツ。信仰心が篤い人間みたかったらうちにおいでよ。悲観的に生きてる人間写真に収めてR.I.Pってコメントを添えてSNSにアップしてくださいね、おちゃらけて強がってるけどずっとこわいんですって吹き出しを添えてたらほら、できあがーりー(出来上がった?発展途上?どっち?今の自分は)ピーナッツチョコなくなったし、カップ麺もなくなった、おなかがいっぱいで、ずっと苦しい。間違いなく今日は最低な休日のうちのひとつ。外に出たくない。家にもいたくない。布団もそわそわして布団の上にいられない。窓をあけて換気をしようにも、換気したらそれはもう外じゃないか、外の空気を吸うのは平日だけで十分だ、誰も入ってくんな、この部屋の中に。砂糖をやめれば鬱にならない(Amazonで調べたら2013年7月にお前はこの本買いましたってさっき出てきた、うっせーな)を読んで白砂糖の害についてさんざん勉強したんですが意味がないんですよ。私は知的好奇心だけ満たして満足するタイプ、いや満足してないけど満足するまで読むのがめんどくさくて途中でやめちゃうタイプなので。シッシッ世界から消えろお前みたいなやつは。家族だけ幸せにして水面下に沈みまーす。静寂や空白が耐えられなくて沈んでいく思考みたいなもの。もうーーーーーーーーーーーーーーこんな自分誰に愛されるんや?愛されたいというからには愛される努力をしないと。犬、ワンワン、スプーン、にゃんにゃん、寒いだろうと思って電気ケトルで沸かしたお湯を大好きなチューリップにあげた少女、花はいつか枯れるからまあしゃあないよな、人はいつか死ぬからまあしゃあないよな、なにがしゃあないのだ?みんなポケモンやってるけどすごいな~ポケモンで人生消費してなにやってんだろうわしってなって悲しくならないのかな。悲観的な妄想で人生を消費している人間に言われたらみんな情けなくて泣いちゃうかもしれない。これは秘密にしておこう。チョコなくなった、外が暗い。終わりだ。ポケモンやりたい。ラプラスのりたい。ラプラスに乗る夢を昔抱いていたんだけどなんかこの前YouTubeラプラスに乗ろうみたいなCMながれてきたぜ?もうだめだ、世界がどんどん進んでいく、取り残されちゃった、取り残されちゃったよう、しくしく、しくさんじゅうろく、さんじゅうろく、三十六歳、あと10年、10年たったら素晴らしい人間になってるはずって期待してたのに全然ダメな人間になってしまいました。今の楽しみはあとでスーパーいってチョコかうこと。でも休日に外出るとそれはもう平日だからスーパーいってチョコとアイスと弁当買う妄想して寝ようかな、かなしい、涙がでてくる、抱きしめられたい。夕方になると抱きしめられたくなってしまう、誰に?神に。かみ~~信仰心が篤い人間なので、どうかわたしを選んでくださいね、終わってる。終わってる26歳。もう誰にも恥ずかしくて会えません。恥ずかしくて誰にも会いたくないから友達はいらないのだ

 

 

 

 

だってモリゾーって森じゃん

頭の体操じゃねえんだよ。頭がいい人たちの高尚な遊びじゃねえ、人生がかかってるんだ。楽に生きるための人生が。これは頭の体操じゃない。本を読むのは暇つぶしじゃない。コーヒーのみながら読書は人を豊かにするねいなんて悦に浸ってる高学歴どもと一緒にすんなよ、人生かかってんだ。布団の中で明日の不安に頭とみぞおちを踏みつぶされながら、目頭あつくして枕に涙の染みがひとつぶふたつぶみつぶよつぶ布団の奥の奥の奥の深いところまでもぐってもう何も見えないようにしながらぎゅっと目をつぶった、暗くて暗くて暗いのに明日経験するであろう失敗のイメージだけは色鮮やかで鮮明な暗闇の中で必死にすがるもの、それが東洋哲学なんだよバーカ、人生がかかってるんだ、みぞおちをかかとで踏みつぶされてる感覚、そいつのかかとをつかんで、噛みついて、かみ砕いて、かみ殺してやるんだ、東洋哲学、だから助けてくださいね

 

 

 

モリゾーとキッコロだったらキッコロ派だったんですが、それってロリコンってことで間違いないですか?っていう思考が今浮かんだんだけど、なんで?意味が分かんないし。この世に無数に考えることあるのに、明日もすごく最低で嫌なのになんでモリゾーとキッコロ?よくわからないけどキッコロが好きってことに負い目を感じているのかな?かわいい声が好きって不純な動機な気がします。後ろめたさ?知らないけど。自然にやさしく?森を切り開いて万博?ミルクティーから最近レモンティーに変えてレモンティーめっちゃ飲んでるんですけど、だからなんで?こういう思考?LSD?カラフル?度を越えたカラフルは暴力的で気持ち悪いらしい。幻覚のぐにゃりぐにゃりなカラフルはかわいくないですよ!

 

 

 

それはそうと、もうすぐ15時になります。休日ってこうやって終わるんだぁって休日のたびに思うんですけど、こうやって生きていくのは嫌です。涙が自然にでてきちゃう体質になった。休日の夕方は。悔しくて。休日が終わることが。休日に涙を流すんじゃ、休日じゃないですね。休んでないじゃないですか?うっせーな、ボコボコにします。ってことでどこで僕は休んだらいいかな?どこに行けば休めるのかな?って考えたらやっぱ働いているときが一番休めている気がします。認めたくないけど。働いている限り、働くのが嫌だっていう思考にはなりにくいから。

 

 

 

今日はもうひとりの社員が教室を運営していますが、めちゃくちゃ心配性なので、昨日の夜、退勤後変なメモとか教室に置いていないか心配で教室中をみてまわりました。もうひとりの社員に迷惑をかけるのは嫌だし、あいつは迷惑をかける人間で仕事ができない人間で無頓着で気持ち悪いと思われたくないから、完璧な状態で教室をでたいとおもって。職場のカギをしめてから自転車に乗って、エアコンきり忘れてないか心配でたまらず、また職場に戻ってきて鍵をあけて、指差し確認して鍵を閉めました。指差し確認して鍵を閉めている間にまたエアコンのスイッチが入ったんじゃないか気になってまた職場の扉を鍵であけました。空気清浄機のスイッチが入ってないことも確認して、コンセントをぬいたことも確認して、全部指差し確認して、教室のカギをしめて、自転車乗ってから、終わらせていない仕事があることに気づいて、また職場に戻りました。その結果朝まで働きました。死ね

 

 

朝に帰ってきて、寝て、起きたら昼でほんとに悲しくて。悲しくて悲しくて。部屋中のものをすべて破壊したくなった。休日の1/3をつぶしてしまった。死んでくれ。お願いだから。誰に死んでほしいかというと、誰も死んでほしくないんです。だから幸せにしてください。キッコロよりモリゾーのほうが好きって打ったけど違和感ありすぎて自分にうそをついている気がしてやめた。キッコロ、お前の声ももう思い出せねえよ、どうでもいいもん。自分が幸せになることだけを考えて生きているから、それ以外のことはどうでもいいんだけど、人に嫌われることが自分にとって一番の脅威だから、人にやさしくしないと生きていけないんだ。やさしくないけど、やさしい人のふりをして、やさしい人って思われないと。愛されたいし、もう少し足をあしをのばしてワンランク上の願望を言わせてもらうと、ほんとにやわらかい人に抱きしめられたいです。

 

 

 

きも。きもっていうのは肝ではなくて、気持ち悪いのきもなんです。明日がきもい。まず。まず、まっさきに、明日がきもい。

 

 

 

自分の心は公共の場所なんだ。自分の心は自分だけの空間。自分だけがカードキーもってて、自分だけが入れる場所だって勘違いしている馬鹿な人間だから、変なきしょくてうるさい不安や心配のBGM流れてるその空間でひとりぎゃーぎゃーゆうてますね。

 

 

 

心は公共の場所。私の心は公共の場所。公共の場所っていうのはつまり、自分の心とこの世界の境界線がなくなったってこと。今この部屋は外側。団地の外の世界も外側。あの保育園も外側。世界は外側。じゃあその外側に、自分の心も押し出してしまう。自分の心が外側でない理由は?認識できるから、それは外側なんだ。公共の場所だ。外の世界。つまり心とは風景。風景に責任を感じるか?風が吹いたのは自分の責任か?自然現象。ただ起こったこと。ただ起こったことっていうんなら、こんなしょうもない文字を生産したのは誰なんだ?自分が考えたことではなくもはや指が勝手に動いているんだ。考えたのではなく考えがおこったのだ。おこった考え。つまり風がふいたのと一緒。かぜふこうかな、ぴゅーじゃないのよ、風は吹いたんだ。雨降らそうかなパラパラパラってできたらすげーよ、雨は降ったんだ。意思とは関係なく。誰が明日の心配なんてしたいと思うんだよ。明日の心配が勝手に起こったんだ。それに何の責任もないだろ。風景とおなじだろそんなの。過ぎ去るのを待ってろよ。過ぎ去るのを待つ?別に待たなくてもいいよ。「土砂降りの雨の中ずぶ濡れで走っていけるか」風景風景風景。心は公共の場所だし、外側だし、公園の広場といっしょ。だから悩まなくていいよ。風景だから。外側だから。責任がないから。自分のものではないから。treatしなくていいよ。

 

 

 

 treatって扱うって意味であってたっけ?バカな人間だって思われて嫌われたくないから、調べてきていいですか?

 

 

 

頭がないことについて

正直に申し上げますと返品しようと思っていた頭がない男。まあ返品する前にパラパラ読んどこうかなと思ってパラパラ読んでるうちに、2750円なんて、普通に一回行きたくない会社の飲み会いったら消えてしまう額だし、交通費合わせると飲み会いくよりも断然安いし、飲み会は疲労感だけ残ってすぐに消えてしまうもの。消えてしまうものに3000円くらい払ってる。しかしこの本は、ずっと持っておく本だから、家に置いていてもいいかなという気持ちになってきて、こういうところがやっぱり、給料をきちんともらえるいい会社に就職した(手取り12マンから22マンに昇格マン)いい点だなと思いました

 

 

今、見えてる景色に自分はいるか?

いや、いない。鼻がちらっと見えるだけ。

自分はいるか?テレビのモニターにうつる自分は、テレビの中にいるのであって、自分の中にはいない。こうやってキーボードを打っている自分。見えているのは手とキーボード。自分はいるのか?感触はある。でも自分はいない。

 

 

この不思議な感覚。少し気を抜くとすぐに消えてしまう、見失ってしまう。すにっちみたいなこの不思議な感覚にずっといると、確かに、自分の中心。自分を自分たらしめている中心は空っぽだという感覚になってくる。「何もない」が中心にある。だってみえないもん。みえないものを自分だと思っている。みえない。確認できない、空っぽを自分だと思ってる。ただ音楽だけが流れている。ただモニターだけがある。手が動いている。手が動いてモニターに文字が勝手に生成されている。

 

 

鏡にうつるのは鏡の中の自分。テレビのモニターにうつるのはモニターの中の自分。自分は確認できない。

 

 

空白。昨日また仕事のミスが発覚して明日お客さんにも社長にもめっちゃ謝らなきゃいけない。怒られる。いやだ。そんな明日の心配がずっと胸のあたりを侵食していて、そろそろ食いつぶされそうなんですが、この痛みも、ずっと眺めてたら「外側」に。「空白」にできないかなっていま期待してるんだ

 

 

 

頭が空っぽなら、自分の体全体も、存在全体も空っぽにできませんか?

エックハルトトールが体を透過するみたいなこといってた。腹が立った時、イライラや心配が自分の体を透過するイメージをもつこと。自分を通り過ぎること。結局はみんな同じこといってるのかもしれない。このイメージをずっと持ち続けるためにはどうしたらいいんですかね?

 

 

 

キーボードは「パタパタ」打とうとすると打ちやすいですね。パタパタ。

 

 

 

自分からフロー状態を迎えに行く。テンポを速くするとフローがやってくる。テンポの良さにフローは流れ込む。自分から動く歩道エスカレーターみたいなやつを呼び込む。ベルトコンベアに乗せられて、何もしなくても移動しているような状態をつくりたい。そういう感覚が確かに何度かあったから人工的に作り出すことは可能なんですが。テンポの良さかなと思っています。行動のテンポをあげると自然に応援されるんじゃないですかね。ゆったりのんびりだらだらやるから鬱になるんだよ。明日の仕事嫌だなと思っているときテンポよくぽんぽん行動しているわけがない。ずっとモニターの前でうずくまって、机をじっと見つめているかと思いきや頭の中の自分が怒られている映像を最前列のどまんなか、でかいスクリーンでみて圧倒されているんだ。

 

 

 

ハーディングの、自分が世界を生きているのではなく世界が自分の中に生きているみたいな考え方、すっき~~~はあと、すっきーすっきーこういう広くてすーっとする考え方が好きなんだけど、考え方を考え方で終わらせてしまったら、たぶんあと30秒もしたら見失ってしまう。この感覚を。それでまた鬱な気持ちで悩んだ夜に本を読んで思い出す。ああそうだった。こうやって生きるんだった。1か月も忘れてた。人生を無駄にした。とかなんとかいうのをくりかえしてつまらない大人になって普通に死ぬんだろうな

 

 

 

明日が嫌だって悩んでいる人間ではない。「明日が嫌だ」が水面からこの広い空間、広いというにはあまりに広すぎる空間に顔を出し、あまりの広さに途方に暮れて水面下にまた消えた。そこに自分はいたか?そこに自分はいたのか?

 

 

 

考えているから自分がいる?考えが、この広い空間にただふわふわ浮いていて、ふわふわ浮いていたど、すぐに消えた。シャボン玉が時間がたったら消えてしまうのと同じで、考えだって、どんな考えだってすぐに消える。広い空間に浮かんだシャボン玉。考えだって同じだ。思考だって同じだ。体の感覚だって同じだ。鬱だって同じだ。

 

 

 

家の近くの保育園から子供たちが遊ぶ声が聞こえる。子供たちが遊ぶ声が空間に浮かんでいる。

 

 

 

 

「裏返せ」

 

 

 

 

空間の中に自分がいるのではなく、自分の中に空間があるのだ

自分とは空間なのだ

空間の特性は?許容すること。なにもしないこと。なにもしないことによってすべてがなされるのが空間の特徴。空間がエゴを持ったら空間でいられなくなる。

 

 

 

何かを考えたくてたまらない衝動をそのまま、そのままにして、意識してそのままにして、何かを考えないととんでもないことが起こるような、そんな恐怖感に従わず、そのままにして、ただそのままにしていると、何も考えなくて済む。

 

 

 

みぞおちに湧きあがる痛み、心配、不安が凝縮されたような、重くて黒くて大嫌いなこの感覚。それは自分のものなのか?道に落ちてる虫の死体と何が違うんだ?これは自分のものなのか?自分がみえるから、感じるからといって自分のものであるという証拠?証拠っていうのかなこういうの、証拠がどこにあるのかな?

 

 

 

黒くて重い感情はただそこにあるだけだったのに、無理やり自分のものにしたがるから!いやそんなことはないです、いらないですこんなの、でも物理的に胸が痛くて、布団に横になりたくなるんです。

 

 

胸の痛みを、みぞおちの痛みをなんとかしようとするから、その存在を自分のものだと認めているんじゃないですか?空間に、ただ浮かんでいるだけ。雨が降ったら、雨が降ったってだけだよ。雨が降ったら、雨が降ったってだけ。たしかに靴は濡れるけど。雨が降ったら、雨が降ったってだけ。雨が降っていることに対して自分で操作しようとしたり拒否したり否定したりしない。みぞおちの痛みも自然な現象。雨が降ったってだけ。雨が降ったってだけ。

 

 

 

ちゃぽんと水面から顔を出した感情。世界の静寂に耐えかねて、水面にもぐった。ただ、静寂だけがあった。空間づくり、静寂づくり、つくるなよ、はじめからそこにあるのに

 

 

 

 

 

 

 

実践家

知的好奇心を満たすためになってしまう。高い本買ってふむふむ、で終わってしまうから。毎日実践できるものしか真髄ではない。神髄ではない。

 

 

思考観察。これが最もシンプル。やっぱりエックハルトトールは偉大だ~。毎日実践できるとしたらこれしかない。思考観察するときのすーっとした感じを、セドナメソッドのように、ホ・オポノポノのように、淡々と、毎瞬、毎瞬実行し続けること。

 

 

 

知識としてだけ知ってても、淡々と、間断なく実践するという決意、意思がなければすぐに消えてしまう。1週間たって思い出して、そうだった思考観察だ、プレゼンスだ、とかなんとか。

 

 

ジョーヴターレ博士の「ハワイの秘法」みたいに、何度も繰り返し「クリアにすること」と書いてくれたほうが実践しやすい。あれはホ・オポノポノについての本だけど、そのまま「思考観察」というクリアリングに置き換えて読んでいる。実践者は毎瞬毎瞬実践していることが本当によくわかる。実践しているという意識が既にないくらい身近なものになっているし、自分の一部になっているから、あえてそれを言わないのかもしれない。

 

 

こうしてキーボードを打っている最中も、キーボードを触る感触に意識を向けて、思考をクリアにし、頭に浮かぶ文字も観察して思考をクリアにし、クリア、クリア、クリア

 

 

ホ・オポノポノは全く効果が感じられなかった(実践するのがしんどくて継続できなかった)が、「I love you」によってゼロ・リミッツに至るという話はすごく面白いし、これは高い山にのぼるためには登山ルートはいくつもある、という話で考えてもいいのかな?つまり間断のない思考観察によっても、ゼロ・リミッツ、神格からのインスピレーションがドカドカおりてくる領域に至れるはずだ。と考えているんだ~

 

 

思考観察することによって、クリアにすることによって、自分に損になることは何もない。ジョーヴターレも言ってたけどクリアリングは何かを手にするためのものではなく、平穏を成就するためのものなのだ。これがだいぶ好き。とっても好き。引き寄せの法則とかだったらこれ正しいのかな?これでほしいものが引き寄せられるかな?これでお金持ちになれるのかな?これがお金持ちになる正しい方法なのかな?っていつも不安かもしれないけど、「平穏を成就するための方法」なんだったら、今この瞬間にわかる。

 

 

思考に意識を向けたとたん、立ち止まって外の音に耳を澄ましたとたん、キーボードがうまく打てなくてイライラしたことに気づいた瞬間、そこにスペースができる(エックハルトトールのいいかた)。平穏が成就される。空間とは癒しだ。空間=癒しだ。S=C

 

 

だから、これは正しい。私は頭がないといわれても。私たちは空間なのだ、私たちは神なのだ。と言われても。哲学としてはおもしろいかもしれないけど、それは今のところは、わたしを救わないので、まだいいかな。まだいいよ。だから、これ以上本を買わなくても、今は、いいよ。知的好奇心、というか本を買いさえすれば救われるような気がしてついついアマゾンでぽちっと本を買ってしまうけれど。

 

 

 

徹底した実践だ。いまだかつて、1時間だって、間断なく思考観察できたことはないし、2~3回実践してそれで終わってた。だから4年間も「知っているのに身についていない」「知っているのに心はつねに暗い」というような感じだったんだよ

 

 

 

今日は休日だから、せめて休みたい。休日に仕事のことばかり考えて、いやな気持になってずっとこうしていたいって布団の中にもぐって気づいたら寝ちゃってて、外が暗くて、休日を無駄にした、もう終わりだって、今日は言わないようにしたい。

 

 

 

思考観察。空間ができる。そこがゼロリミッツ。間断なく、毎瞬毎瞬、思考観察。今にある。

わらわはスクリーン

さっき書いた記事の意味が分からないから整理させてちょうだいね

 

音が聞こえる。どこできこえている?

パソコンや白い壁、キーボードがみえている。どこでみえている?

もやもやしてる。平日の心配をしている。どこに感情が表れている?

キーボードが指に当たる感触。どこで感じる?

 

どこに、どこで、の答えはひとつ。「意識」または「スクリーン」

ここで展開されている。やっぱり「意識」にしよう。

だから、私とは意識なのだ。

 

 

意識とは空間のこと。

(意識、空間、スクリーン)=受容能力がある

だからハーディングの本で「私とは受容能力だ」と言っていた。

 

 

エックハルトトールもすべてにYes!と言おうといっていた。

ナチュラルスピリットから出てる本のほとんどに同じようなこと書いてあった気がする。

すべてにYesというのはつまり受容能力のこと。

オノヨーコの作品で天井に小さくYesって書いてあってジョンレノンがすきー!ってなって結婚したやつ思い出した。

 

 

受容しましょう、受け入れよう、じゃないのよ

あーーーミスタイプばっかでいらいらするなあ!!!!

イライラするということは、イライラするという感情を自分が受容したのだ。

受容したからスクリーンにイライラが照射されたのだ。

つまりだ。受け入れましょうじゃないのよ。

受け入れているんだ。

受け入れることがその性質だから。

性質ということは、どれだけいやがったって有無を言わさず、そうなる。

水は上から下に流れるものなんですが、どれだけいや!いやいや!といったって

水は必ず下に流れていくし。つまり、どれだけいやがったって、そうなる。性質。

空間はどんな存在をも許容する。どんな存在をも許容するから空間なのだ。

ってやつ、ルパートスパイラのプレゼンスの中に書いてあった気がする。こんなこといってた文章だけメモして本買わずにブックオフから帰ったのが2年前だけどまだ覚えてる。ってことはきっと真実なんだろう!そうきめたよ!ちゃんと本買わなきゃ

 

 

私の性質は受容能力。ということは、私はすべてのすべてを受け入れてしまう。

だからいらいらもすべて、すべてのすべてが照射される。

問題となるのは、それを拒否するか、しないか。

拒否したところでもうスクリーンに写されているんだから、どうしようもないじゃないか。なのに毎日毎日拒否しています。自分は。

拒否するということもスクリーンに照射されてしまった。

拒否する嫌な感情も空間の中に現れた。それに気づいて。

 

 

やっぱり鍵は結局気づきなんだよな。

自分はいろんな訪問者でごったがえすターミナル駅みたいなもの。

新宿駅新宿駅?わたしは新宿駅。みんな、駅にとまらず帰ってくよ、みんなすぐに消えていくよ。勝手に現れて勝手に消えていく。新宿駅は解脱者だ、たくさんの感情を受容しているのだから

 

 

 

来るもの拒まず去る者追わず。

これが私の標語になればいい。これが空間としての姿。

私とはそういうもの?

 

 

 

 

別に、頭の体操とか知的好奇心みたしたいとかじゃないんだよ

頭はつかいたくないし、頭わるいから、もう全部どうでもいい。

ただ、楽に生きたいだけ。

楽になりたい。重荷をおろしたい。

ふわ~とふかふかした気持ちであたたかく生きていきたい。

楽になりたいし楽でいたい。解放されたい。開放的に生きたい。

ハーディングが本の中で「奇跡的開放」といっていた

それに期待したい。

セドナメソッドにも解放することで開放されるだとか書いてあって

なんでもいいから解放してくれ。いますぐ解放してくれ

 

 

受容能力、空間

拒否できない。決して拒否できない。性質だから。

受容能力、能力というより受容。受容の一択のみ。

受容し続けている。

視覚での受容

聴覚での受容

嗅覚での受容

触覚での受容

味覚での受容

あらゆる受容の瞬間を見逃さないこと。

拒否権が一切認められないことに気づくこと。

これがサレンダー。精神的な降伏によって幸福に。

サレンダー、捨てちゃったんだっけ?いい本だったのに

 

 

私とは受け身だ。完全に受け身だ。

受け身が私の性質か?

 

 

思考が湧きあがったその瞬間、どこに湧きあがったのか知ること。

思考が下りるヘリポートを見つめる。

思考がわきあがったのは、私とは受容であり、なんでも受け入れるから。

でも、みつめたら消えたよ。

 

 

 

私は人間ではない。

私とは場所だ。